新「シネマに包まれて」

字幕翻訳家で映画評論家の齋藤敦子さんのブログ。国内外の国際映画祭の報告を中心にシネマの面白さをつづっています。2008年以来、河北新報のウェブに連載してきた記事をすべて移し、新しい装いでスタートさせました。

2014年12月

2014nantes_05p_dollares_de_arena.jpg 12月1日は、夜の閉会式前に、見残していたコンペ作、「DLARES DE ARENA(砂のドル)」と「AS YOU WERE(あるように)」の2本を見た。

 「DLARES DE ARENA」(2014年、アルゼンチン・メキシコ・ドミニカ合作)は、同年齢のメキシコのイスラエル・カルディナス監督とドミニカのローラ・アメリア=グズマン監督の共作だ。

 ドミニカのビーチ、島の若い女性ノエルは、相棒を兄と偽ってはリゾート客に近づき、売春などで金品を得ていた。彼女は島から出たいという夢を持っている。一方、パリから訪れて滞在するアンは、彼女の人生の終盤を太陽の下で過ごしたいと、移住を考えているのだが、まだ果たせずにいる。ノエルはアンの"遊び相手"となり、アンは彼女をパリに連れて行くと約束する。果たして2人の夢はかなうのか?

 人生の終盤を迎えた孤独な富裕層が、リゾート地を訪れるのはなぜだろう?
 
 これまでのしがらみとは関係なく、ドル(カネ)さえ払えば、心の空白を埋めてくれる存在を「手軽に」得られるからではないか。ノエルらは、そこにつけ込んでいる。アンは同姓のノエルに親密さを感じ、彼女のいない「時間」に喪失感を覚えるが、ノエルにとってみれば、島を出るために利用できる存在の1人でしかない。だが、ノエルは妊娠していることが分かり、相棒との仲も最悪になっていく...。

 監督はビーチの美しさ、アンとノエルが海で泳ぐ際の海中シーンなどと対比させることで、人間の心の在りよう、途上国の現実を浮かび上がらせたともいえる。互いに利用し合う関係でなくなったとき、初めて互いが相手を「ひと」と感じるようになる。ラストは、ノエルを失ったアンが、街をさまよいながら、自らを立ち直らせようとする姿だった。

 【写真】ノエル(左)とアンには、越えられない溝が...(「DLARES DE ARENA」より)

2014nantes_p05_as_you_were.jpg 「AS YOU WERE」(2014年)は、シンガポールのリャオ・ジェカイ監督の作品。幼なじみの男女が、離れ離れになりながら、静かに、しかし確実に再会への道を歩むさまを、3話形式で表現したもの。

 その3話は、年代順ではなく、前後に入り組み、バラバラにされる。しばしば、小さい頃の原風景(小さな島)から現代のシンガポールの高層ビルが照射される中で、2人の成長や2人の距離などが暗示される。最後は音楽が2人を結び付けるのだが、穏やかなナレーションとリズム感のある画面が、意欲的な3話構成に、しっかりと一体感を与えていた。

【写真】幼き日の思い出は、2人を結び付ける(「AS YOU WERE」より)

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 閉会式は午後7時半から、ロワール川の中州にある国際会議場「シティ・コングレ」で開かれ、 "香港のクロサワ"といわれたキン・フー監督の武侠劇「残酷ドラゴン・血闘!竜門の宿」(1967年)が上映された。この作品は中国が舞台だが、台湾で製作され、今回は台湾文化財団による修復(リマスター)版で上映された。

 キン・フー監督はワイヤー・ワークの発案者。代表作の「侠女」(1971年)ではトランポリンを使ったアクションが観客をびっくりさせた。「残酷ドラゴン-」は、明朝時代の政変を背景とした善悪対決を集団抗争劇で描いたもの。カンフーの達人たちのテンポの良い動きと相まって、これぞ娯楽映画!の醍醐味を味あわせてくれた。近年のCGと合体させたワイヤー・ワークの洗練度に比べると無骨な演出だが、逆に意表を突いたアクションに観客から「オーッ」と歓声が挙がり、上映後には盛大な拍手が起きた。

 さて、今年のコンペ部門だが、韓国の「自由が丘で」(ホン・サンス監督、2014年)が、ナント出身のジュール・ベルヌにちなんだ金の熱気球賞(グランプリ)を獲得した。主演は日本の加瀬亮で、コンペ部門にノミネートのなかった日本にとっては朗報だった。

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nates2014_p04_yamanonaka.jpg 30日はコンペ作品からアルゼンチンのニコラス・マカリオ=アロンソ監督の「山の中」と韓国のホン・サンス監督の「自由が丘で」、メロドラマ特集からメキシコ「Enamorada(愛)」を見た。

 「山の中」(アルゼンチン・コロンビア合作、2014年)は、コンペ作品で唯一のドキュメンタリー。監督自身はアルゼンチンのブエノスアイレス生まれだが、コロンビアで育った縁があり、同国リサラルダ県の山中に暮らす最後のラバ牧童たちの世界を追った。

 母親の介護などで町に向かう者いるが、残った者は共同で昔ながらのラバの牧童として暮らす。農作業でも、町から生活に必要な家具や雑器を運ぶ際もラバを使う。車はもちろん入れない、人でさえも歩きにくい山道を、ラバに隊列を組ませ、最後まで運び上げてしまう。ほぼ自給自足、靴だって自分で直す。生活の何もかもを、かたくなに昔ながらのやり方で続けているのだ。

 彼らは、ラバの気性はもちろん山道の勾配やカーブも熟知し、ラバの隊列がリズム良く登れるように掛け声をかけ、急勾配では最少のムチをふるう。それでも駄目な場面では、自らが代わって運びさえもする。

 監督は、彼らの寡黙で無駄のない暮らしぶりを、自然に立ち向かうのではなく、寄り添って生きる者として、静かな視点で捉えている。またギターを主体とした音楽が、祖父や父と同じように家族を守ろうと決めている彼らと自然を、一体的に包み込むように響いて、心に染みた。

 エンドロールでは、彼らが築いた木造住居が絵模様で現れ、完成するまでの過程を教えてくれるという、監督の遊び心も心憎かった。

【写真】寡黙な男たちはラバの隊列を見事に導いて目的地を目指す(「山の中」より)

 

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nantes2014_p03_mauro.jpg 29日はコンペ作品、アルゼンチンのヘルマン・ロッセーリ監督の「マウロ(MAURO)」(2014年)とユー・リクウァイ特集の彼の監督作、メロドラマ特集のインド作品、コロンビア特集の短編2作を見た。

 21世紀に入りアルゼンチンの財政危機は深刻で、人身売買、麻薬密売、インフレで額面だけ高くなった紙幣の偽札づくりが横行する。監督が「マウロ」で描きたかったのは、混乱の時代だからこそヒーロー、いやアンチ・ヒーローを登場させたかったのだろう。

 マウロもバス運転手としての平凡な生活に隠れて、裏家業に手を染めていく。母親の言いなりから飛び出し、親しい友人のカップルと新しい「ビジネス」を始め、パプロという相手も見つける。手刷りから輪転機を使った本格的な偽札づくりへと乗り出し、それは見ようによっては工芸品をつくり出すようなものだった。

 監督は偽札づくりの工程を、手刷りから輪転機まで、札の出来栄えとともに作業の様子について細部にこだわって描き出している。そのことで、逆説的に「悪」である存在もヒーローとなりえることを示した。

【写真】パウロが現れ、「仕事」にも励むマウロ(「マウロ」より)

 ユー・リクウァイ特集は、彼の長編デビュー作で脚本も手掛けた「天上の恋歌」(2000年)を見た。
 香港を舞台に、アダルトビデオ店を経営するヒモ男と事故でダンサーをあきらめて男のパトロンになった中年女、中国本土からやってきて娼婦となった若い女、エレベーター整備士の若い男、この不器用な男女4人の出会いとすれ違いが描かれる。


 彼は撮影助手を務めるかたわら、映画製作も始め、1996年、田舎から北京に出てきた女性3人の生活をとらえた中編ドキュメンタリー「ネオンの女神たち」を撮り上げ、翌年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でシネマ・ダイスキ賞を受賞している。この撮影で出会った女性たちのエピソードや考え方が、「天上の恋歌」の下敷きになっているという。決して、このままでいいとは思っていないのだが、突き破ることができないでいる。だからこそ不器用になってしまうさまが、伝わってくる。


 彼はジャ・ジャンクー監督の「一瞬の夢」(1997年=3大陸映画祭でグランプリ)に撮影監督として参加して以降、「プラットホーム」(2000年=ベネチア映画祭最優秀アジア映画賞)「青い稲妻」(2002年)「長江哀歌」(06年=ベネチア映画祭グランプリ)「四川のうた」(08年)と、ジャ・ジャンクー作品にはなくてはならない存在となっている。今回の特集では、「プラットホーム」以降のジャ・ジャンクー4作品、彼の長編第2作「オール・トゥモローズ・パーティーズ」(03年)などが上映された。

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nantes2014_p02_seigi.jpg 28日はフィリピン、トルコのコンペ作品とメロドラマ特集、カファディ・シャラ特集の各1本見た。フィリピンのジョエル・ラマガン監督の「正義」は、悪の手伝いをしながら貧しい存在への心配りも忘れない女性が、主人に代わって悪の張本人になっていく。その過程を追いながら、個人とっての正義(あるいは公正)とは、社会にとってのそれは何なのか-を突きつける作品だ。

 60歳のブリガンはマニラで、同郷出身で成功した女主人の下で働いている。ただ、女主人は悪徳警官らを巻き込んで麻薬密売や人身売買を手掛けていて、ブリガンはその悪行の全容を知りながら、カネの受け渡しや連絡係を淡々と着実に務める。その一方で、妹一家を支援、貧民街で買い物や食事をし、教会を訪れて寄付をし、時には時計台のあるビルの上から紙幣をまく。

 彼女は、女主人が仲間を射殺した現場に遭遇して逮捕されるが、女主人が寄こした弁護士の力で無罪放免となる。が、女主人が彼女を疎ましく思い始めたことから、自分や妹一家を守ろうと、全てを記録したノートを記者に手渡す。一方、女主人のパトロンたちは女主人の排除を実行、ブリガンを後継者に据える。ノートの取り返しを迫られた彼女は、記者を撃ち殺してしまい、パトロンに助けを求める。

 ラストは彼女の盛大な誕生会。パトロンたちに囲まれ、その中の1人に耳打ちされた彼女は、明るい笑い声を上げ続けるのだった...。

 彼女の笑いは何なのか? ボスに収まっても、貧民街がなくなることを望み、ビルの上から紙幣をまくことはやめない。貧民街でカネをねだる赤ん坊を抱いた母親に、「今のままでいいの」とでもいうように平手打ちを加え、その後にカネを渡す。

 社会が貧しい人々生み出しているのなら、個人としてやれることをやる-彼女の中ではこう正義のバランスが取れているのだろうか? 社会悪と個人の関係は簡単には割り切れないし、解決がつくものではない。ブリガンという存在が逆説的に照らすのは、社会の仕組みが連鎖的に生み出す貧困などの悪に囲まれながら、どう目を向け、あらがい続けられるのか、人間の存在そのものではないだろうか。

 この難しい役を実年齢そのままにこなし、作品を成り立たせているのが、フィリピンの国民的大女優ノーラ・オノール(61)。彼女は、貧しい村の出身で、素人のど自慢大会の優勝を機に歌手デビュー、その後に女優になり、芸術性ある映画作品も製作している。ラマガン監督作品では、「フロール事件」(1995年)に主演、カイロ映画祭でグランプリ、最優秀主演女優賞を獲得している。フロール事件とは、シンガポールでフィリピン人メイドのフロールが、事故で子どもを死なせたことから殺人罪で逮捕され、子どもの父親がシンガポールの有力者だったこともあり、フィリピン政府の抗議にもかかわらず95年に死刑が執行されたというもの。この実話に基づき、ドキュメンタリータッチでサスペンスフルに描いて、事件の持つ問題点をあぶり出した。

 「正義」の中には、日本社会の「悪」の側面も登場する。さらわれてきた少女たちの、送り込まれる先は日本なのだ。どこかの国に限ったことではなく、普遍的に人間の在りようが問われているのだが、遠く離れた国では、より強くそのことを思い知らされる。

【写真】弁護士と対応を話し合うブリガン(「正義」より)

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